てくてくちとせ

四柱推命について書いていきます

絶持ち|絶として生まれ、絶として生きる


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絶は「断絶」の意味をもつ。絶のもつ内面にひろがる独自の普遍性は、他者への説明が困難で、そのために精神的援助がうけとりにくい。………マルコムXから影響をうけたボクサー、モハメド・アリは、人格者でもある。「私が心から恐れるものは、神の法だけだ。人間の作った法がどうでもいいというつもりはないが、私は神の法に従う」これはアリの残した有名なことばだ。まるで絶の内的世界の葛藤のようである。

 

 

絶の葛藤

 

変わり者、偏屈、幼少のころはこうした評価を浴びて、周囲と共通点をみいだせないじぶんを疑問におもうこともあるだろう。

 

真実、物事の価値観をはかるものさしが、すこしちがっていて、ずっと後に周囲の子たちが築きあげた価値基準に、あまり共感できなかったときづく。に内向的要素があることはいなめないけれど、周囲が全力でこどもをしているなか、絶も、彼らの築きあげるであろう大切な習慣からはずれて全力でこどもをしていた。

 

他の子たちが外界からあたえられたことに適応する喜びを感じるなか、絶はじぶんが゛外界そのもの゛をつくりあげるのだと、どこかでしっている。ふつうをめざすと自意識のなかに収まりきらない恩寵がうもれてしまう。気づけば「変り者」だ。

 

「変り者」と呼ばれても、そこには絶ならではの法則性があるから、゛変゛とはいえない。そう、ご指摘する方々のおっしゃるすこし違っているということなのだ。

 

ありのままの絶

 

ボクたちは一人で生きているわけではない。直接、また直接ではないけれど、間接的ルートを介して誰かと繋がっている。そして、少なくとも信号を赤でわたったり、お金をはらわずに物は買えないなど、社会生活をおくるうえで一定の価値観を共有せねばならない。それははなしの前提である。

 

だけどそれ以外の繋がり、つまり、趣味嗜好が似た者どうしが輪をつくったりと情報、知識の共有からの発展という部分に乏しい部分が絶にはある。多くの人は誰かと笑いあったり、繊細な情を育んだりと、その法則性を、教義としての自己像のうちに完結させている。(わかり辛い説明で申し訳ない)

 

絶持ちさんへの説明でもあるのだが、絶は人間の外格(自己イメージや、自己執着、見栄)に固執することに向いていない。教義としての自己像が希薄だからだ。そのため、物事をじぶんの深部で解釈し゛無゛の色が塗られていない状態から判断する性質がある。それが絶にとってのありのままなのだ。

 

そのため物事の観察眼が独自的でアートな才能があるのだが、外格の設計が難しいという不安定さが両立している。

 

つまりそれを生かさない手はないとうことだ。鈍感な現実をまえに、じぶんが美しいとおもえる事柄に触れつづければよい。

 

絶として生まれ、絶として生きる

 

あなたのそれはハンデではない。ハンデとはどこぞの人が勝手に決めたものだ。ハンデとは観念的限界にすぎない。

 

絶についての記事を書くとき、この星にどれだけの可能性があるのかを書きたい。誰かの想像する観念としての価値観がどれだけ脆弱で、内なる声に耳をかたむけたとき、どれだけ自由な世界が広がるのかを。

 

物事への向き合い方のはなしだけど、絶は「きちんとする」ことに向いていない。教義としての完璧さではなく゛内的声に導かれたことがらを、それを゛神の法゛と呼べるかはわからないけれど、尊重しなければならない。

 

そうすれば、決して欠けた部分は生まれない。欠乏感、孤独感、無力感、といった人間の感じる、生命の根元から遠ざかってしまったさいに生じる感覚。

 

絶として生まれたのなら、絶として生きる。それはまるで゛クモの巣と蝶々の関係゛だ。クモの巣にかかった蝶々を助けてあげたとすれば、蝶々はふたたび羽ばたくけれど、クモの餌はなくなる。みずからが偏りを生じる手を打ってはならない。

 

蝶々がどうなるか、クモがどうなるかは自然の摂理が決める。「断絶」という個性があるならば、そこには必然性がある。断絶の後につづく出来事、出会いが生まれる。

 

十二運のなかで、極度に衰えた絶という運勢は、自然の摂理(神のといってもいいのかもしるない)に身をゆだね、一方で摂理を俯瞰し、身動きならぬ状況から真理を発見してくことの連続だ。

 

そのうえで、こういいたい。そんなあなたは決して一人ではないと。あなたが美しいと感じること、素直な喜びを感じられることに触れつづければ、あなたに必要なタイミングで理解者が現れる。

 

 

おわりに

 

絶という運気を肌で感じて、痛感することは、物事はすべて必然だということだ。友人、知人の絶持ちさん方と、あるときはなしをしていて、実は、おなじことを痛感していたとしった。

 

うまくいかない運気というのは万事塞翁が馬で、もっともダイレクトな自然的摂理のメッセージを受けとることができることに繋がる。うたれて伸びる、いやがおうでも気づきを得る生き方になっていく。すべて必然なのだろう。有難いことだ。