てくてくちとせ

四柱推命について書いていきます


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一滴の水にもう一滴の水を加えた場合、質量は増えたのだけど、算数の授業で習う1+1=2の方程式にはあてはまらないでしょう。

 

数は人々の知恵のたまものだとおもうのですが、抽象的な現象の膨らみを表現することは可能なのでしょうか?

 

上記の比喩から、例えば「愛情」の相生を理解するうえで、過不足なしということが本質であり、マイナスへもプラスへも進むことがないのがほんとうではないでしょうか。

 

ボクが知らないだけなのかもしれませんが、面積、質量、体積、という、 結局のところ増減するという、数のあり方がどこか、腑に落ちないのです。

 

「愛情」はすなわち「0」、「0」のつぎもまえもなく、ずっと0であり、そう定義すると0のままの縮小、膨らみを表す数値が存在しないのでしょうか?

 

ボクには信条がありません。

 

瞬発力で生きています。

 

その特徴は「0」から始まり、あらゆる1となる要素を好みません。

 

1から2、2から3とならず、0であり続け、発揮され続けねばならず、それに慣れてきました。

 

前置きが長くなりましたがこんかいは、「愛」をテーマとしたスピリチュアルな話となります。

 

 

 

ボクの個性は「0地点」です。

 

三十代をむかえるまで、そのことに気づきませんでした。

 

人は多忙であると、風が強かったり、雨が降っていたりしても、通常なら、それは、じぶん以外の森羅万象の活動だととらえるでしょう。

 

人生の主役がじぶんであり、主役とそれ以外の舞台なのですが、ボクは、どこか、森羅万象の繭にいる気がするのです。

 

「外格」というもの、すなわち、自己イメージの認知を行うべき、承認欲求を得る手段が、ほとんど不必要な状況です。

 

前回の記事にも書きましたが、有名なウィスキーの文句「なにも足さない、なにも引かない」そのまんまで、十分、存在を確認できています。

 

孤独というものの本質は「愛」から遠ざかった状況を指し、「愛」を認識するための、サナギの状態だといえます。

 

孤独の本質をしれば、自身の気質、森羅万象との関わりから、じょじょに自己理解を深め、物理的に人との距離感が離れたりすることが、真の孤独ではないと認知しはじめます。

 

整数の増減的な価値観に、飽きてしまうといいますか………。

 

0地点にいると、それだけで満たされています。

 

絶えず、0から0と同質のものが、生じ、その波長により、共鳴する人物、事柄と関わっていきます。

 

スピリチュアルてきな解釈をすると「愛」と「恐れ」のエネルギーのどちらかに、人は反応し、そのときの自身への条件付けが、のちのちまで、影響するようです。

 

http://www.twinrayhanabi.com/entry/2018/06/15/165042

 

すべての「1」へと繋がる要素は、「不足」という観念から生じているのではないでしょうか?

 

過不足がなくとも、つまり、一方で「空」でありながら、数字の前進も、後退もなく、満たされた状況も存在します。

 

「愛」も「恐れ」も表裏の関係であり、一方が強力になると、もう一方の重要さが、等しく強力になるという間柄です。

 

「恐れ」を克服するということは、より深く「恐れ」を知ることです。

 

「恐れ」の深さを知ると、無意識はより「愛」の深さを理解します。

 

鏡となっているといえます。

 

過不足がないように仕上がっていて、表現がおかしいですが、「完全的な美しさ」が存在しているように感じます。

 

そのような観点から、0から、過不足のない「数?」による数学があれば、知りたいとおもったのです。

 

0の起源はインドだといわれ、始点からの距離、間隔を図る手段として用いられてきたのが、有力な説です。

 

個人的にはとても、哲学的な概念だなと感じるのです。