受容の繭

こころ軽やかに生きる内容を記していきたいとおもいます。

映画『スタンド・バイ・ミー』の魅力/1986年から30年の時を越えて


f:id:tarookadato:20190317203032j:image

現在の三十代、四十代のひとびとがお父さん、お母さん世代と考えて、青春映画の名作『スタンド・バイ・ミー』というのがあるぞと、家庭でそんな話題があがったことがないだろうか?

 

われわれの層に作品のファンは多く、ボクは現在35歳で、当時『スタンド・バイ・ミー』をみて、登場人物の彼らの繊細な世界に触れ、タイトルでもある、歌も、よく歌ったものだ。

 

筋は非常にシンプルで、主人公である作家のゴードン・ラチャンス(ウイル、ウィトン)が少年期を振り返り、仲間とともに冒険にでかけて、そこで描かれる友情と青春の物語である。(一応の表向きはね)

 

 

現在からさかのぼって、30年以上まえのはなしになるが、もとはスティーブンキングの小説である本作は、1986年に映画化、ゆえにいまの十代、二十代のひとびとに馴染みが薄いのは当然だ。

 

またネットで、現在の十代のひとびとが、『スタンド・バイ・ミー』をみた感想と、ボクたち世代が作品をみた感想のなかにある、世界観をとらえるちがいのギャップを感じた。

 

まあ、そりゃそうだわな…。

 

漫画だって、われわれ世代の作風は、だいぶ影を潜めて、いまや、タイトルのつけかたや、作画も工夫と変化の道を進んでいるのだから。

 

ただ、名作と呼ばれるものは、漫画でも映画でも音楽でも、年齢や世相を越える゛普遍性゛をもっており、流行はすたれても、作品自体の味は、色あせない特徴がある。

 

スタンド・バイ・ミー』は青春映画として、思春期にみて、彼らの世界観とシンクロしたり、反発したり、また、大人の視点で振り返ることて、気づくものが非常に多い映画だ。

 

こんかいは1980年代の哀愁が存分につまった本作を、ボク世代の目で、現在の世代のひとびとに向けて、書いてみようかとおもう。

 

 

 

 

ストーリー

 

「主人公のゴードンが、友人四人とともに、 地元で話題となっていたブルーベリーを摘みにでかけて戻らない少年の行方を探す目的で、ひと夏の冒険に出かける物語。」

 

端的にいえば、そんな感じだが、「少年を探す冒険」というのは、ほとんど後付けであり、彼ら四人には共通点があり、彼らの家庭環境の背景などを中心に、ストーリーが進行していく具合となる。

 

 

 

  主な登場人物
主人公/ゴードン(ウィル・ウイトン)

友人/クリス(リバーフェニックス)

友人/バーン(ジェリーオンコネル)

友人/チャンプ(コリーフェルドマン)

ゴードンの兄/ゴードン・ラチャンス(リチャードドレイファス)

/エース(キーファーサザンランド)

 

<もっと詳しく>

 

https://middle--edge-jp.cdn.ampproject.org/v/s/middle-edge.jp/articles/I0000622.amp?amp_js_v=a2&_gsa=1&usqp=mq331AQCCAE%3D#referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com&_tf=%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%3A%20%251%24s&share=https%3A%2F%2Fmiddle-edge.jp%2Farticles%2FI0000622

 

 

 

あらすじと考察

 

うだるような夏のこと、複雑な家庭の事情から、ゴードンは家族と距離をとり、ゆううつな日々をすごしていた。

 

そんなゴードンにとって、小さな町キャッスル・ロックと、来年には中学生となる、仲間たちとの交流が彼の世界のすべてだった。

 

ある日、友人のバーンの口から、「ブルーベリーを摘みにでかけたまま戻らない少年の話」が出たことがきっかけで、ゴードン、バーン、クリス、チャンプの四人はその場の「ノリ」で少年探しにでかけることにする。

 

当然お金はないし、いよいよ時間だけはもてあましており、簡単なキャンプ用具のみを装備して、目的地までの長い旅がはじまる。

 

彼らは、大人の真似をし、たわいもないことにつとめて明るくふるまっていたが、ゴードン以外の三人もまた、家庭環境に問題を抱え、こころの底に深い孤独感を抱えていた。

 

映画のなかで、「あのときボクたちはどこへ向かっているのかわかっていた」というフレーズが印象深い。

 

親友のクリスは、ゴードンの小説の才能を認めており、家族では唯一ゴードンのこころの支えであった兄と似た存在といえる。

 

ゴードンは、クリスに、自身が家族に愛されていないと打ち明け、クリスは彼を励まし、来年は、進学組に進むよう促す。

 

クリスは、自身の兄の影響から、町にいずらくなっており、就職する道を希望、バーンも、チャンプもそれぞれの事情で就職の道に進むため、来年は離ればなれだ。(実際はクリスは進学組に進み、猛勉強のすえに弁護士となる)

 

「少年探し」というのは口実にすぎず、照り返す夏の暑さとは、正反対の影の存在に抗うように、道中彼らは、よく笑い、よく話し、ふざけあった。

 

中学生のころ、この物語をみたときは、ささいな、そういった観点に気づかず、単にストーリーを楽しんだものだ。

 

大人になってもう一度、みてみると、彼らの孤独感、やり場のない焦燥感をつぶす手段が、仲間と過ごす以外に皆無だということに気づかされる。

 

生きることの光と影が、少年期というかけがえのない時間を通して交錯する。

 

そういった感覚は、少子高齢化核家族化を経て、ボクらの世代よりも、現在の十代、二十代のほうが理解できるのではないだろうか?

 

 

チャンプは、自身のなかで英雄である父親を尊敬し、たびたび作中で父親のオマージュをしている。

 

父親に対して、認めてほしい気持ちをもつ一方で、その関係は複雑なもので、犬をからかうシーンで心境の葛藤が現れている。

 

道中長い線路ぶちを歩いていると、「ところで」誰ともなく、所持金の確認をする決定を行う。

 

全員の所持金2ドル7セント…。

 

日本円にすると270円、リュック一つで無謀ともおもえる旅のさなか、短髪頭で、いじられ役のバーンが、「髪をとかすクシ」をもってきたくらいだ。

 

クシなんか使わないだろと、仲間につっこまれつつ、休める場所までいき、ある工場にたどり着く。

 

チャンプとバーンは、先にいき、クリスは元気のないゴードンを励ましながら、二人駆けて、涼しい場所に向かった。

 

彼らはテレビ番組のはなしをし、おそらく、まだ理解の及ばない内容を、誇張し、少年期特有の無敵感を遺憾なくはっきする。

 

おそらく、そういったお互いの価値観の共有という部分は、幼いころから、短所も長所も知りうる者どうしだから、可能であり、失礼とか無礼とか、そういったものとは一線をきす、独自の世界観が存在する。

 

コイントスで、食料を調達する人を決めるか…、四人は、器用に銀貨を親指ではじいて、手の甲におとす。

 

負けはゴードン、仲間と離れ、ふたたび内向する気持ちを抱えて、一人歩きだす。

 

小さな町だ、商店では、店主から聞きたくもない兄の話がでて、彼の内心は、より芳しくない。

 

そんな状況で、さきほど仲間といた場所に戻ると、三人がいない。

 

この工場はおっかない工場主と、番犬がいることで有名であり、ゴードンはある時間帯になると彼らが現れることを仲間から聞いていた。


f:id:tarookadato:20190317211152j:image

不安を募らせるゴードンの目には、はるか向こう、三人がフェンスの向こう側に渡っているのを発見、とそのとき、「そこでなにしてる!」工場主にでくわし、ゴードンは三人のもとへ全力疾走しながら、事態を理解した。

 

息をきらし、ゴードンはなんとか逃げのび、チャンプは彼らを追いかけてきた、工場主と、その犬を積極的にからかう。

 

四人とも有頂天だったが、その工場主に父親のわるくちをいわれ、チャンプは怒りにもえる。

 

「父さんは英雄だ!」

 

チャンプが傷ついたのは、工場主のいったことが、世間的に事実だったこと、またその矛盾を埋めようとしたじぶん自身がそれを理解しているからだ。

 

親は子供にとってヒーローしかし、世間的には必ずしもその限りではない。

 

幼いころは、世間的ギャップを感じながらも、どこかで、親を信じていたい…そう願い、大人になって、あらためて、じぶんのアイデンティティーとそれを形成してきた真の価値観と直面する。

 

そんな歯がゆさも、この映画を゛あらためて二回゛みる醍醐味といえるだろう。

 

この作品は、そういった、少年世界と、大人のリアルな世界が交錯し、それによって彼らの道行きを明るくしたり、暗く感じさせたり、状況描写が作品世界の構築に絶妙のスパイスを与えている。

 

また、その状況で少年たちがとる行動のすべてが、少年期ならではの、相手への感情的踏み込みと、健気なほどの純粋な優しさだとか、ものすごくリアルに描かれているのだ。

 

少年期の不安定で、不完全な世界を見事に再現すればするほど、彼らの夏が、彼らにとってどれほど貴重であったか、帰らない日々の美を感じさせる。

 

………ついに目的地の森までくると、夜、かれらは、ほんの少しだけど、四人そろって心情を語り、焚き火を囲み、ゴードン自作の「パイ食い競争」の小説を聞く。

 

聞き終わると、三人が小説の終わりについて、素直な異議申し立てをおこないつつも、オチに関しては、みたガッツポ―ズをしたシチュエーションが感慨深い。

 

彼らは彼らが知るゴードンを認めており、どんな大人よりも彼のこころの底と共鳴できる絆があったことを証明している。

 

彼らが冒険の果てになにをみたのか、ここでは書けない。

 

帰路についた彼らがみた、キャッスル・ロックはまえより少し小さく感じたのは、冒険を通しての、こころの変化が、夕日のような儚い光ではあるが、確実に彼らの前進する姿勢は強くなっていた。

 

ただ大人になったゴードンは作家になっており、その夏について、詳しく触れて、最後にこう締めくくっている。

 

「あの頃の時のような友人に出会えることはない」

 

その問いかけが、われわれにとってイエスとなるのはノーとなるのかについては、人によるけれど、未成熟であり、ほんの短い時間のなかにこそある人間関係は確実に存在している。

 

 

 

 

さいごに

 

現在お弁当を買って登校する少年がいる。

 

保育園の子供のお母さんが、コンビニご飯を暖めてくれという。

 

食事一つとっても、個人のアイデンティティーを構成する要素だ。

 

スタンド・バイ・ミーをみた当時のボクたちは考える。

 

当時嫌だと思った大人の習慣を行っていないのだろうか?

 

重要なのは、彼らの旅の結果ではなく、その過程こそがもっとも輝いており、よく笑い、よくふざけ、よく泣いたことのすべてが彼らの集大成なのだ。

 

社会や、大人は、結果で判断することが多いが、逆にこどもたちの主体性を縛っている側面がある。

 

登場した少年たちの進むべき先は、両親や、学校、彼らを取り巻く環境によって、それぞれの道を進んでいく…。

 

この映画は、人生の無慈悲を物語っている、一方で、その瞬間でしかありえない、少年同士の絶対な信頼関係を写し出している。

 

スタンド・バイ・ミー』=

 

そばにいて

 

絶対的に存在し、二度と戻らない瞬間へ。

 </p