受容の繭

こころ軽やかに生きる内容を記していきたいとおもいます。

成功を求めない生き方もあり‐生きる過程を充実させる

 

 

成功とはなんでしょう?会社を発展させる、人生でなんらかの栄光を手にする、結局はそれを決めるのは当人でしょう。ある目的を追及した結果、成果を治めた人、おもいがけない出来事から運勢を発展させた人と、注目するべきはその過程といえるのではないでしょうか?

 

現代は結果主義の傾向が強いように感じます。結果を求めて努力をする。うまくいけば成功、うまくいかなければ失敗という感じでしょう。「観念的な成功の定義」があるのではないでしょうか。成功と失敗という二極化ですが、実際には

経験

が存在しているだけなのではないでしょうか?成功だ、失敗だ、と経験を定義しているといえるのではないでしょうか。その結果に到達する過程に充実を感じられることこそ大切な要素ではないでしょうか?


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ここでいいたいのは、結果的な成功の批判ではなく、過程の大切さについてです。ボクは以前、仕事の関係で、1日に10時間の草取りを行いました。延々と広がる場所で、黙々と行いながら、その時間の密度を考えました。この行いにどんな意味があるのだろうか?と。そんな作業を続けながら気づいたのは、それそのものに意味があるのではなく、

じぶんが意味をつけるのだと

 

つまりどんなことに充実を感じるのかは、人それぞれ違っていて、必ずしも全員がおなじ方角を目指す必要はないということです。個人的には社会的な成功とは、自己実現を完成させる手段だと捉えています。(完成というものはないでしょうが、近づくという意味です)じぶんが何者で、何に喜びを感じるのかをはっきりさせていきたいのです。

 

例えば、仕事ができないといわれる人に、そのことを指摘するよりも、できない要素を取り除くことが大切だと考えます。もともと、仕事ができない人は存在しません。仕事ができるできないという、観念もある種の優劣意識であり、ほんとうはお互いに誤解があるだけなのです。もし、仕事や組織的な生活と距離を置いた場合、人がどういう風にして承認欲求を満たすのかという部分に、個人の真価が問われるのではないでしょうか?

 

小さな因果の掛け合わせが異なることに、現代はあまり寛容ではありません。観察をすると、さまざまな誤解があるだけで、人の真価を否定するものごとは、実は存在しないのではないでしょうか?できる、できない、 優劣、成功、失敗など、これらを個人的には観念の問題と捉えています。それぞれの気質、環境要素、さまざまな複合的な事柄によって人々の暮らしは成り立っています。

 

結果を求めることに疲れたなら、過程を見直すということが大切なのは実体験を通じて感じます。こんかいは、「成功とは一種の観念だ」という、非常に主観的な内容になりましたが、本日もさいごまでよんでいただいてありがとうございました。