受容の繭

こころ軽やかに生きる内容を記していきたいとおもいます。

感情を感じられない時の対処法/半年で感情を取り戻した話


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「感情を感じられることは幸せなことだ」、といえば、なにが幸せなのだ?とおもわれるかもしれないが、子供のころのような豊かな感情を持ちつづけている人が果たしてどれだけいるだろう。

 

人は学習する生き物で、生きる経験を重ねるうちに、いろいろな感覚を摂取不捨していくなかで、やっぱ、辛い気持ちは感じたくないや…。

 

当然、機能的にそう考えにいたる。

 

そうやって、あのころのように、すべてを受け入れる生真面目な体制から、選択的になるのだけど、気づくと何かがちがってしまっている。

 

神様の計らいは、感情の、喜怒哀楽のどれかのみを、感じないようには設計されていないようで…、気づくと一つを感じないようにするため、すべての感情に霧がかかってしまった。

 

アダムとイブのように、一回の選択まちがいで、「はい、アウト!」…そりゃないだろ…。

 

ボクの場合は仕事を通して、そんな感じで、感情がうまく機能しなくなっていたし、周囲の友人でもそんなケースがある。

 

こんかいは、感情を感じられない時、どのように対処し、それを乗り越えたか書いてみたい。

 

一ついえるのは、嫌悪する感情を無視してしまうのは、「イエローカードじゃい」と神様にハンコを押されてしまう行為ということだ。

 

 

 

 

感情を感じられない間は観念的になっている

 

感情を感じられないといっても、そのことで本人が困っていないのなら問題ないのだが、大抵は一種の喪失感を抱くはずだ。

 

例えば

 

<失感情症>

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%9F%E3%82%A2

自身の感情をことばで表すことが難しく、自身の情動の認知、が難しいため、他者との感情交流が難しい状態。

 

感情事態がないわけではなく、あくまで、感情鈍嘛状態であり、呼吸法や、自律訓練法が有効とされる。

 

この場合は内面に怒り、罪悪感、などの感情が抑圧されているため、苦しい状態。

 

カサンドラ症候群

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4

情動の機能が、環境要因によって、機能しなくなる症状。

 

環境の変化により回復する見込みがある。

 

感情、情動がうまく機能していないとき、多くの場合、抑圧された感情が潜んでおり、ほんとうは動きたい衝動にあふれている。

 

ボク自身の事例でいえば、自身の気質に加えて、環境要因が重なったといえる。

 

だから、こんかいの話でできることは、結論からいえば、「環境要因」へのアプローチと「気質」の気付きである。

 

この二つは、生活するうえで、情動活動の前輪と後輪のようなものといえる。

 

自身の運転する車の燃費がわるいまま、高速道路を通って日本横断しようなんて考えると、すぐに

 

ガス欠。

 

ところで、苦しい人間関係などで、人間が上記のガス欠状態に陥った場合、脳はいちはやく、もうすぐ、エネルギーがきれちゃうよ~と、本人に連絡をするのだけど、大概が、

 

もう少し頑張って…。

 

本人自身に断られて、脳の信号は点滅、それなら…もう「な~んにも感じたくないや」

 

ほんらい、感情と情動が働くいていた部分の壁が剥がれてきて、「観念的ストーリー」で塗装しておこうかしら。

 

じぶんという存在の役割を観念的ストーリーのなかに配置することで、一旦おちつく。

 

観念における自己正当化は、情動、感情が、過酷な環境要因における最終的手段といえる。

 

 

その状態がつづくと、年月とともに感情はますます感じられなくなり、あるとき、ふとおもう。

 

「喜び」が、感じられない。

 

ボクの場合はそれが、゛気付き゛のきっかけになり、感覚的にごまかされている機能部分に目をむけるようになった。

 

まずは、住む場所、仕事、すべての環境を変えることを決意すると、よっこらしょ…感情君が「やっと気づいたかいな」ってな具合で、少しづつ腰をあげはじめた。

 

そして、半年ほど、外部との交流をほとんどやめて、部屋のなかで、瞑想し、自身の感情を、感じよう、感じようと試みた。

 

はじめの一ヶ月は、環境の変化により、かえって焦りがうまれ、不安な気持ちのまますごした。

 

苦しい気持ちのまま、車に乗り、

 

…いったことない場所へいきてえなあ…。

 

ひたすら、知らない場所を無為の気持ちで何時間も、走りつづけると、無為の気持ちに、悲しみや、怒りの感情が、ボクの意志とは関係なくあふれだして、気がつけば泣いていた。

 

何ヵ月も、瞑想し、遠出をし、泣きつづけた。

 

泣くと、無意識下に沈んでいた感情、それも、ずいぶん古いものから、新しいものまで、どんどんあふれてきて、とまらなくなった。

 

誰に対して、怒っているのか、理解できたし、ほんとは、自身の進みたくない方向に向かっていて、つらかったことがわかったことが、回復に対する影響として大きい。

 

そして、一時的に気持ちが゛子供返り゛していた。

 

感情を感じられないようになった背景に、 じぶん自身が、じぶんの感情を無視しつづけた部分をみつけて、申し訳ない…とじぶんになんども謝った。

 

感情の代わりに、観念的ストーリーを生きることで、過酷な環境からじぶんを守りたかったんだなあ…。

 

感情の復活は「内的に分裂した事情を、統合させる旅だった。」

 

食べ物はおいしく、人との交流が楽しい、そう感じたころには、感情を感じられなくなって半年の月日が経っていた。

 

「禁断の果実」をかじった経験は、あまりにながい、不調和の時間だったといえるだろう。

 

こんかいのご報告として、感情を感じられないとき、感じられるようになるために大切なことは、

 

1・まずは無意識の望むように行動する

2・無意識の奥にある状態にアクセスしようとする

 

3・意識的に感情を感じようとすること

 

4・あらゆるじぶんの側面を認めていく

 

時間が解決するということばがある。

 

人間も自然の一部なわけだから、自然の流れに身をまかせることで、治癒する理屈がある。

 

その摂理において、不自然な要素を、自然的方向に導いていくことで、思い返せば回復の道に進んだようにおもう。

 

 

 

まとめ

 

カサンドラ」とは、ギリシャ神話の神様で、アポロンに想いをよせられるのだけど、予知能力があったため、アポロンの裏切りを予言して、身をひいた。

 

怒ったアポロンは、ぐぬぬ…おれのプライドが…、カサンドラの予知能力を誰も信じないという、魔法をかけた。

 

神様といえど、行いの質はいかんせん、そしてカサンドラのことばは誰にも響かなくなり、彼女は悲しみに暮れる。

 

人間は感情の生き物だ。

 

感情が豊かなことによって、五感も機能し、食事に対する喜び、想像することの楽しさを理解するのだろう。

 

ほんらいは組織のなかにいて、個人個人の幸せは果たされる必要があるのだけど、現実的には、感情を抑圧しなければならない事情に遭遇する。

 

その抑圧が、感情を麻痺させ、ひびの喜びを奪うものとして、責任は誰がとってくれるんや!と考えたところで、じぶんが選択しなきゃならない。

 

社会と個人は、カサンドラアポロンの関係と似ている。

 

どちらかを優先しようとすると、ほころびが生まれるため、きょうも上手に過ごそうやないかい…となる。

 

しかしそれを心理的な観点からみると、そうとうの無理をしているはずで、感情的に苦しんで、解放されたいと考える人は相当数いるだろう。

 

人は、幼少期までさかのぼると、じぶん一人だけでなにかを感じることはできない。

 

理解力のある両親、友人たちとの交流から、感情の深みがあらわれるのだ。

 

しかし現実的には、ある人は感情より、会話の流れを優先させたり、ある人は表面上のコミュニケーションに徹したり、と、生き辛さが現れている。

 

もっともっと、社会全体が、心理的側面に目をむけ、腹を割って話しても、後に引きずらないような、人間関係の構築に、家庭、学校教育から力をいれるべきではないだろうか?

 

社会におけるだれかのわがままも、中和する存在がいて成り立っており、そういった人々の気持ちを、決して無駄にしてはならないのだ。

 

人間関係は゛相互性゛で成り立つのだから、お互いがお互いの精神的健康を支え合う意識をもたなければならない。

 

ほんとうの意味で、懐の広い゛大人゛と呼べる人物が活躍できる社会であってほしいとおもう。