てくてくちとせ

四柱推命について書いていきます

自由な生き方を選ぶ/価値観と生き方の統合にて


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自由とは気宇壮大なテーマであり、馬に乗って平原を駆ける人も、海を眺める人も、人々が出会ってこれまで、意識せずにはいられなかった気持ちではないだろうか?

 

ポカポカ陽気のお日さまが、毎日つづくと、ときどき降る雨の価値がわからない。

 

どんな人にも不自由な経験があり、自由になりたいとおもうのも一緒の理屈で、日々どこか苦しく、なにかが間違っていると感じている…。

 

きょうはお米がたべたいけれど、きのう買ったパンが残ってるんだよなあ…、スパゲッティーが大好きなんだけど、ボクん家は米が主食だし、まわりのみんなもそうなんだよなあ…。

 

靴のなかに小石が詰まってるのだけど、ずっとそのまま、自由は靴のなかの、小石がとれる感覚に近いのかもしれない。

 

探しているうちはみつからないけれど、じぶんがおもってもみない方向から、もたらされて、それが、必然のことだったように感じる。

 

…よし!お母さんに頼んでスパゲッティーの日と、ごはんの日、半半にしてもらおう…。

 

府に落ちるときがくる。

 

じぶんの生き方と、現在歩いて目指す方角が重なれば、自由はおのずと現れるものだ。

 

 

 

 

自由とは満たされた状況

 

生きていれば自然と腹が減るように、自由は決してじぶんの「意のまま」にならない。

 

もう少しで、思いのままだ、ふへへへと考えていると、運命の神様が、その心意気に対して「それじゃあ、本人のためにならんな…」やり直しじゃい。

 

そんなはずでは…。

 

ときには、世の変化や、年齢や、自然的な流れで、行進の歩みを止めねばならないことは、どんな英雄にも共通している。

 

人が生きている以上、じぶんの望むことが、じぶんのおもったように、ずうっと手に入る

なんてことはなく、試練のような状況が発生する。

 

ラスダンで無双していたら、コンテニュー後で、「試練の◯◯」的なダンジョンが出現し、おもわね裏ボスが存在しているという、あれである。

 

だから、自由という感覚が、無双ぶりから発揮されるのではなく、和の禅の方角から、見据えたほうが、存在をとらえやすいのではないだろうか?

 

比較して、手に入れての状態にあらず、もう十分ですよ、という感覚である。

 

満たされるときは、いつであるのか?といえば、林修先生の、「いまでしょ」であり、いまの繰り返しが未来なのだから、「いま」に不満足なままでいて、未来に「満足」がやってくるなんて、ガムのように甘い発想はありえんでしょう。

 

日々、自由意思で生きているという基礎的感覚は大切である。

 

だって、結局のところ、じぶんのために生きているんだもの。

 

じぶんのためにいきてこそ、人のことも幸せにできるのだ。

 

もっともっと出世したいし、じぶんのおもい描く未来ではないから、現状に不満足だなんて、感じでは、一つのこと以外、すべて不正解ということになるし、一人一人のそれがかなうことが、よいかどうかは、

 

万事塞翁が馬である。

 

自由も幸福とおなじく、感じられるかどうか

 

という要因がまずは、大切である。

 

それと平行して環境要因が大切だ。

 

満たされた状況を継続していくことは、なんて自由なんだろう。

 

誰かをまきこまねば、成し遂げられないものは、自由とはいわず、自由意思によって成し遂げられる人生のなかにおいて、自由が存在する。

 

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