受容の繭

こころ軽やかに生きる内容を記していきたいとおもいます。


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全ての1となる要素は、1から2に発展する可能性をひめた要素は、人々の心理、精神に対しては、過不足を生じさせてしまうと、勝手に仮説をたててみました。

 

1は正の整数としては最小単位の自然数で、数や距離、位置を計る単位であり、-1同様に0を起点としたあらゆる過不足の最小単位です。

 

古代エジプトでは、分数、ギリシャでは整数が使われており、ソクラテスが、数の概念に関して考察しました。

 

おなじ物質が二個並んでいたとしても、その形や大きさが完璧におなじものはないに関わらず、1のものが、もう1つあらわれると2になる不思議。

 

「1表の格差」といわれるように、地域により、候補者が当選する、投票1の比率が地域によってちがうわけで、最近は補正されてきたものの、完全同質の「1」といわれるものは存在しません。

 

数の歴史は、平等でない状態からはじまっています。

 

数の連続性には、個人差というものが、考慮されない部分があり、人と比較した感情的な葛藤、比較した欲など、本人にさえ備わっておればよい部分が見落とされてきました。

 

0を軸として、1が生じるのですが、0地点から0の膨らみ、萎みを観察することが、いわゆる、禅の世界のものの見方でしょう。

 

0は本来0地点のままでよく、さまざまな1が必要なく、個人においては、なにかを加算して、価値観を得るのではなく、本来ある0を、大切にすることが大切だとおもうのです。

 

最初は、普遍的な単位の意味をもっていた1ですが、1には゛加速゛する性質があったように感じます。

 

1は2を生む宿命にあったのです。

 

太古の歴史から、食料を共同で管理しようと考えたころから、その宿命は存在しており、より、「おおく」が現代的には正しい摂理とされています。

 

しかし、ボクは現代社会を生きながら、ガンジーのいう「速度をあげるばかりが人生ではない」ということばを、つねづね意識するのです。</p